G・ボワソナードと日本の法制度|白取祐司
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G・ボワソナードと日本の法制度|白取祐司

白取祐司
法学部教授・刑事訴訟法

 フランス人、ギュスターブ・ボワソナード(Gustave Boissonade)が横浜港に到着したのは、明治6(1873)年11月15日のことだった。マルセイユ港を出たのが9月28日だから、実に90日間の船旅ということになる。余談だが、私はマルセイユに2週間ほど滞在したことがある。昔の佇まいを残した商港で、船旅の起点として当時はかなりの賑わいだったであろう。
 明治政府は、日本の近代化を推し進めるために、フランスなど当時の先進国から多くの技師や専門家を任期付きで雇い入れた。政府は彼らを、「お雇い外国人」と呼んだ。ボワソナードもその一人で、彼はパリ大学法学部教授であった。彼の任務は、法律顧問として日本の法制度の近代化に協力することであり、後に西欧流の各種法典草案を起草することになる。

 もちろん、江戸時代にも「法律」は存在した。たとえば、今の刑法にあたる法規範としては、御定書百箇条があった。しかし、この「刑法」は公布されず、「(民衆に刑法を)知らしむべからず、寄らしむべし」と言われるように、民衆は何をやったら罰せられるのかあらかじめ知らされなかった。このやり方は、近代刑法の基本である罪刑法定主義とは真逆である。罪刑法定主義とは、行為のとき「犯罪」として法律に書かれてなければ処罰されないという原則で、ボワソナードが起草してできあがった旧刑法(明治13年公布)二条にも、「法律に正条なき者」を処罰してはいけないと明記されている。このようにして、西欧の近代的諸法典が整備されていったのである。日本が参考にした西欧モデルは、イギリス、ドイツ、アメリカなどだが、法制度整備のモデルとしてなぜフランスが選ばれたのか。それは、当時世界を見渡して、最も法典が整備されていたのが、ナポレオン五法典を誇るフランスであり、近代化を急ぐ日本にとって、これらをモデルにして、ともかく「かたち」だけでも整えることが急務とされたのである。

 しかし、法律を「かたち」や形式だけ真似ても、近代化にはならない。そうやっても、近代法の目的である自由や個人の尊厳といった価値を守ることにはならないからである。個人主義の伸張を望まない明治政府とボワソナードは、ここで衝突することになる。その象徴的な事象が、ボワソナード起草にかかる民法典をめぐる争い、いわゆる「法典論争」である。民法は、人々の経済活動から日常生活、家族関係まで扱う広範で重要な法律であり、ボワソナードの起草作業も困難を極めた。そして明治23(1890)年、ようやく民法典公布に漕ぎつけた。だが、その内容は、当時の封建的社会制度、とくに家族制度に固守しようとする支配層には受け入れがたいものであった。東京帝国大学教授の穂積八束は、法典を「極端な個人主義」「民法出て忠孝亡ぶ」と、口を極めて論難した。この年に開かれた第一回帝国議会は、この民法典の3年間の延期を決めた。そうして法典は、一度も施行されることなく、葬り去られることになるのである。

 明治政府とボワソナードの対立は、民衆が裁判に参加する陪審制の導入問題にもみられる。今日では、市民の中からくじで選ばれた裁判員が、裁判官と一緒に刑事裁判をする制度が定着し、市民が裁判に参加することに誰も違和感をもたない。しかし、民主主義の根本を分かっていない(分かろうとしない)明治政府を説得するには、それなりの説明をしなければならない。そこでボワソナードは、彼が残した治罪法典注釈書(仏文)の中で、なぜ陪審制を日本に導入する必要があるのかについて、次のように記述する。「重罪に関する裁判は、最大限道徳的権威をもつ必要があるし、もし司法が何らかの意味で民衆に由来していれば、民衆は一層これを尊重するであろう。被告人の利益は、彼と同じ民衆から選ばれた人々に付託され、社会の利益は、この社会自身の構成員に付託されるのである」、と。彼はこのように述べたうえで、「この事理は英米、欧州に定着したものだ」と言い、モンテスキューの名前を挙げる。重要なのは、法制度の「かたち」ではなく、民衆に依拠した裁判という価値ないし理念なのだ。

 だが、明治政府からみて、民衆は、「人情に流されやすく」、「未だ参政の習に熟せざる」実情にあるから(井上毅)、とても刑事裁判を任せるわけにはいかない。これが明治政府の結論であった。結局、治罪法典自体は、民法典と異なり、明治13(1880)年に公布・施行されるのだが、立案の過程で陪審制は削除されてしまう。欧米では民主主義のシンボルとされた陪審制だが、日本の為政者には邪魔な存在だったようだ。
 その頃、日本の近代化モデルは、次第に、軍事強国として存在感を増し始めたドイツ(プロイセン王国)にシフトしていく。明治22(1889)年公布の大日本国憲法も、プロイセン憲法に倣ったものであった。

 同じ年の4月28日、ボワソナードは、初来日のときと同じ横浜港からフランスへと帰国の途に就く。パリ大学教授の地位を投げ打って、長年日本のために尽くしたボワソナードだが、彼が本当に残したかった西欧の「法の精神」は、当時の日本人には十分理解されなかったようだ。その意味でボワソナードは、きっと失意のうちに日本を去ったと言う論者もいる。彼のそのときの心情は知る由もないが、言えるのは、彼が日本に残した“遺産”は日を追うごとに評価が高まり、今日なお法律家によって参照されている。
 いつしか、ボワソナードは、「日本近代法の父」と呼ばれるようになる。

白取祐司
法学部教授・刑事訴訟法

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