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「リベラル・アーツ」とは何か?|深澤 徹

深澤 徹
国際日本学部教授・平安・院政期の文学

 せっかく法学部や工学部(ここは経済学部や理学部、医学部や看護学部でもかまわないのだが)に入ったのに、その学部に特有の専門領域をあつかう科目は、なかなか受けさせてもらえず、その前に、めんどくさい語学とか、高校の授業の延長のような一般教養なんかの、まどろっこしい科目ばかり受けさせられて、うんざりだ!
 大学に入ったばかりの新入生は、そんな感想を抱くのではないだろうか。どうしてこんな回り道をしなければならないのか。こんなことやって、なんの役に立つのか、と。
 一般教育とか、共通教養などと、名称はさまざまだが、大学一年次に受講が義務付けられているこうした科目は、もともと「リベラル・アーツ」の名で呼ばれていた。訳して「自由・学芸」。だからといって、受けるのも、受けないのも、当人の「自由」という意味ではない。

 「リベラル・アーツ」の歴史は、古代ギリシャにまでさかのぼる。ご存知のように、当時は奴隷制社会だった。その中で「自由市民」(奴隷だけでなく女性や子供もそこに含まれない)とされた、ごく一握りの特権的エリート集団だけが身に付ける素養として、「リベラル・アーツ」教育(言語表現にかかわる文法学、修辞学、論理学の三学科と、算術、幾何学、天文学、音楽の四学科からなる)は始まった。ラファエロ描く「アテナイの学堂」というルネッサンス期の有名な絵がある。中央にプラトン(モデルはレオナルド・ダ・ヴィンチとされる)とアリストテレスが並び立ち、なにかさかんに議論している。これはアテネ郊外にあった学校「アカデメイア」の様子を描いたものだが、ここから「アカデミズム」ということばも生まれた。重要なのは、「自由(リベラル)」と「奴隷」の対比だ。イソップみたいな例外もあるけど、「奴隷」は通例、主人の所有物として、その命令に唯々諾々(いいだくだく)と従い、自ら主体的に考え行動することがない。その対極に、自ら主体的に考え、行動し、相手の立場を尊重しつつ、互いに議論を闘わす「自由市民」のあるべき理想像があって、それが民主主義(デモクラシー)を支える精神的基盤ともなった。

アテナイの学堂

ラファエロ・サンティ「アテナイの学堂」


 一部特権的なエリートだけに許された「リベラル・アーツ」の以後の歴史は、貴族階級やブルジョア市民層から労働者大衆へ、さらには女性へと、そのすそ野をどれだけ広げていくかにあった。そのプロセスをたどる苦闘の歴史があるのだけれど、途中はしょって身近な例でいうと、日本で「リベラル・アーツ」を担ったのは、旧制の高等学校だった。それらは「一高」とか「五高」とかナンバーが付けられ、まだまだ一部エリートの、しかも男子だけに許された特権的な場だった。大正の末年に普通選挙法(ただし成人男子のみで女性に選挙権は与えられなかった)が施行され、日本にもようやく民主主義が根づきはじめた昭和のはじめ、神奈川大学はまだ「専門学校」で、「リベラル・アーツ」の場ではなかった。
 「一高」や「五高」は戦後、東大の教養学部や新制の熊本大学へと移行した。それと足並みをそろえるように、「専門学校」から「大学」へと昇格するにあたり、神奈川大学もまた「リベラル・アーツ」をカリキュラムに組み込んだ。つまり「リベラル・アーツ」にこそ、大学の大学たるゆえんがあるということなのだ。というのも、自由で民主的な社会を維持し、それを主体的に担う「自由市民」の育成こそ、「リベラル・アーツ」の目的だからである。

 とはいえ、実際に大学で行われている「リベラル・アーツ」が、当初の目的にかなった内実を備えているかどうかは保証の限りでない。大教室での数百人規模の多人数講義が当たり前のように行われていたり、そもそも担当教員にその自覚がなかったりして、「リベラル・アーツ」の形骸化が叫ばれて久しい。だからこそ、その本来の目的に立ち返ることで「リベラル・アーツ」の意味をあらためてとらえ直すことが大切なのだ。

 「大学で何を学ぶか」というテーマでこの文章の執筆を依頼されとき、いろいろ考えたすえ、「リベラル・アーツ」に行き着いた。日本では当たり前のこととされ、空気みたいになってしまっているが、「一国二制度」をほごにされた「香港」や、独裁者による言論弾圧の続く「ベラルーシ」では、「自由」と「民主主義」が、いとも簡単に踏みにじられ、ないがしろにされている。

 筆者(深澤)の現在の所属は、国際日本学部日本文化学科であるが、学科の専門科目よりも、長年担当してきた共通教養科目の「文学」に最も力を入れている。「文学」とはとんと縁のない、経済学部や工学部、法学部や人間科学部の学生にこそ、「リベラル・アーツ」として「文学」を学んでほしい。そうすることで、自分の専門領域からは見えてこない、別の世界や価値観のあることを知って、自らの立ち位置を相対化し、広い視野と多角的なものの見方を身に付けてほしい。自由平等の市民社会を今後とも維持し、継続していくうえでも、「表現の自由」と「基本的人権」を根幹にすえた民主主義社会を死守し、次代へと引き継いでいくうえでも、君たちひとりひとりの自覚が、なんとしても必要だからだ。

 最後に参考文献を少々。古典的なテキストとしては、ドイツの哲学者カントの『啓蒙とは何か』と『諸学部の争い』を紹介しておきたい。最近のものとしては、ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム失われた歴史と現在』(青土社、2020)がお薦めです。

深澤 徹
国際日本学部教授・平安・院政期の文学

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために毎年発行しています。

この連載では最新の『学問への誘い 2021』からご紹介していきます。


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